平和な閉塞感は、解消すべき課題なのか?(普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける、ということ)

こんにちは。「単純作業に心を込めて」彩郎です。連載「普通の個人が、ブログのある毎日を送り続ける、ということ」の第3回をお届けします。

前回と前々回は、2012年3月当時に私が抱いていた閉塞感のことを書きました。

この連載は、この閉塞感を出発点としています。とはいえ、この閉塞感は、平和な閉塞感です。具体的で明確な問題が存在するわけでもなく、放置しておくと苦しい立場に追い込まれるわけでも、毎日の暮らしが灰色に染まってしまうわけでもありません。であれば、何か問題なのでしょうか? わざわざ何らかの対策をとって、この状況をどうにかする必要があるのでしょうか?

実は、私自身も、よくわかりませんでした。

今回は、この平和な閉塞感を、解消すべき課題として捉えるようになり、解消するための道筋を考えた経緯について、お話します。

【閉塞感の小さな声への態度】

2012年2月当時の私の毎日は、平和な閉塞感に包まれていました。ふと気づけば、そこに閉塞感があります。

でも、これは全然深刻な話ではありません。閉塞感といっても、「何かが足りない」という抽象的で漠然とした感覚に過ぎません。家事や仕事など、毎日の生活の中で次々とやってくる具体的な物事に集中していれば、いちいち気にする暇もありません。閉塞感からの声は、とても小さいものでした。

そのうえ、その閉塞感からの声を一時的に黙らせるのは、とても簡単でした。

たとえば、

  • 「私は今、大切な家族と一緒に穏やかな毎日を送っている。探していたのは、こんなシンプルなものだったんだ。」
  • 「コーヒーを相棒に、こうして行う単純作業が、回り回って、どこの誰かも知らない人の笑い声を作ってる。」

のように、持続可能で平和な毎日の価値を言い聞かせれば、閉塞感はすぐにおとなしくなりました。

あるいは、

  • 「与えられた具体的な仕事に全力を尽くすことが、人としての責任を果たすことなんだ。」
  • 「抽象的な閉塞感にかまけているのは、具体的な役割から逃げているようなものだ。」

というように、お説教めいたことをいえば、すぐにしゅんとなって引っ込みました。

そんなわけで、2012年の私は、閉塞感の存在を感じつつも、閉塞感からの小さな声に悩まされるでもなく、穏やかで平和な毎日を送っていました。当時の私にとって、閉塞感は、必ずしも解消すべき課題ではなかったのです。

【閉塞感への態度を変えた、2つのきっかけ】

ところが、2012年1月〜2月ころ、そんな閉塞感に対する私の態度を変える、2つのきっかけがありました。

ひとつめは、『ソース』という本を読んだことです。

『ソース』は、「すべてのワクワクを同時に実行する生き方」をテーマにしています。

すべてのワクワクを同時に実行する生き方。『ソース〜あなたの人生の源は、ワクワクすることにある。』

こんな生き方が果たして実現可能なのかについては、賛否両論あるかと思うのですが、私がハッとしたのは、「ワクワクすること」という基準自体が、自分の毎日の生活から姿を消していた、という事実でした。「最近、どんなことにワクワクしただろうか?」と自分に問いかけても、何も思い浮かびません。「ワクワクするかどうか?」という基準で物事を判断したり評価したりすることが、ほとんどなくなっていたことに気づきました。

ふたつめのきっかけは、このアシタノレシピの『みんなのイチ押しブログ選手権』でした。

あなたの「推しブログ」を教えて下さいー『みんなのイチ推しブログ選手権』開催します! #oshi_blog

この企画に参加していた多くのブログ記事を読んで、「楽しそう」「自分もやってみたい」というあこがれのような明るい気持ちを抱いたんだ、ということを第1回で書いたのですが、ちょっと思い切って正直に書くと、ここには、「うらやましい」というちょっとネガティブな感情もありました。「あの人たちはとても楽しそうなのに、自分はそうじゃない。」という感じです。そんなネガティブな感情を抱く自分に気づき、私は少し焦りました。

  • 「ワクワクするかどうか?」という基準自体が毎日の生活から消えていたこと
  • 自分以外の人が楽しそうにしているのを見て、「うらやましい」と感じたこと

あまりよい傾向ではありません。楽しくないし、元気もありません。解消できるものなら、解消したほうがよいような気がします。

それと同時に、この2つのことは、毎日の生活の中にある平和な閉塞感とつながっているのではないかと感じました。

そこで私は、閉塞感の小さな声に耳を澄ませてみることにしたのでした。

【耳を澄ませて、聞こえてきたこと】

閉塞感の小さな声に耳を澄ませるため、いくつかのことをしました。これまでに自分がワクワクしたことを書き出すとか、これからの人生でやりたいことをリストにするとか、どんなときに閉塞感を感じるのかを書き出すとか、自分が「うらやましい」という感情を抱く対象やシチュエーションをリストアップするとか、そういうことです。

そんななかで、2つのことに気づきました。

ひとつは、新しいことの試行錯誤が、ずいぶんと減っていたことです。

2012年というと、仕事を始めてからしばらくが経ち、一通りのことを経験した頃でした。当初は、日々の仕事を進めるために、いろいろなことを試行錯誤せざるを得なかったのですが、徐々に、うまくいく可能性の高い方法とそうでない方法とがわかってきたこともあり、うまくいく可能性の高い方法だけを愚直にくり返す、というようなスタイルになっていきました。その分、失敗は少なくなったのですが、他方で、試行錯誤が減っていました。

もうひとつは、自分のすべてを発揮して毎日を送っているわけではない、ということです。自分の中に、毎日の中で発揮されることのない部分が、たくさん残されて、その発揮されていない部分の中に、自分としては、かなり大切にしている部分があることに気づきました。

たとえば、私の仕事はたくさんの文章を読んだり書いたりすることを求められていて、私は文章を読んだり書いたりするのが好きで、文章を読んだり書いたりすることに関する技能や考え方などを育んできたつもりです。でも、仕事において求められる文章の読み書き能力は、客観的な論理を的確に把握し、情報を正確に伝達するなど、客観的な能力なのですが、私が好きで育んできた能力は、必ずしも客観的なものだけではありません。普通に仕事をしているだけでは、私の中にある文章の読み書きに関する諸々のうち、発揮しなければいけないのはごく一部分だけで、残りの部分は手付かずで残されたままです。

  • 試行錯誤そのものが減っていたこと
  • 自分の中にある大切な部分が発揮されることなく残されていたこと

平和な閉塞感の原因は、どうやらこの辺りにあるようでした。そして、この2つの原因は、『ソース』とアシタノレシピで気づいたことと、なんとなく対応しています。

  • 試行錯誤そのものが減っていたこと
    • 「ワクワクするかどうか?」という基準自体が毎日の生活から消えていたこと
  • 自分の中にある大切な部分が発揮されることなく残されていたこと
    • 自分以外の人が楽しそうにしているのを見て、「うらやましい」と感じたこと

こうして、私は、毎日の生活の平和な閉塞感を、解消すべき課題として捉えるようになりました。

【閉塞感を解消するための道筋】

閉塞感を解消するための道筋は、自然と浮かんできました。

ひとつめは、試行錯誤を増やすこと。

目指す理想は、〈自分の生を、人間の生のひとつのモデル・ケースとしてみなす〉という『実存からの冒険』のイメージです。

この実験=冒険としての生、というイメージのなかには、〈自分の生を、人間の生のひとつのモデル・ケースとしてみなす〉ということが含まれている。 ニーチェじしん、自分の生をそういうひとつのモデルとみなしていた。充実して生きるために、さまざまな実験を身をもってやってみる。そういう努力が互いを 刺激するし、励まされる。

『実存からの冒険』p.232

『実存からの冒険』から受け取った〈実験=冒険としての生〉というイメージが、ブログによって現実になっていた。

でも、持続可能な毎日も大切で、仕事や家族に対する責任もあります。自分の生全体を実験にするまでは思いきれなかったため、毎日の生活の中に、試行錯誤を手軽に行える実験場のような場所を用意したいと考えました。その場所で失敗しても他の場所に影響が波及しない、基本となる日常からは隔離された実験場のような場所です。

ふたつめは、自分の中にある、自分として大切に思っている部分を、少しずつ発揮していくこと。

とはいえ、仕事や家庭など、他者との関係で一定の役割を果たすべき場所では、自分が発揮したい部分ではなく、他者から求められる部分を、まずは発揮すべきです。だから、自分が発揮したい部分を好きなだけ発揮できる場所を作っていきたいと思いました。イメージとしては、店長からのおすすめの一品を出してくれる居酒屋です。

店長からのおすすめの一品

  • 試行錯誤のための実験場
  • 店長からのおすすめの一品をお客さんに提供できる場所

閉塞感を解消するために描いた道筋はこの2つですが、この2つの実現を託されて生まれた場所が、ブログ「単純作業に心を込めて」なのです。

—編集後記—

今回の記事では、2012年2月当時の自分が抱いていた閉塞感をふり返りました。このために、材料として活用したものは、Evernoteに残っていた当時の思考ログです。

2011年ころから、私は、Evernoteの中に、毎日の生活の中で感じたことや考えたことの思考ログを残していました。北真也さんのEvernote本などの影響です。

今回の記事を書くため、ブログを始める少し前に、自分がどんなことを考えていたかをふり返りたいと思い、Evernoteを掘り返してみたら、その時期の自分の思考や感情が、克明に記録されていました。

たとえば、『ソース』を読み始めたのは、2012年1月26日です。その日、私は、「わくわくすることをする」というタイトルでEvernoteにひとつのノートを作り、「『ソース』は久々のヒットかもしれない。」というようなことを書いています。

またたとえば、ブログを試行錯誤のための実験場と捉える、という発想に関連して、2012年1月27日にEvernoteに書いた「『実存からの冒険』とブログ」というタイトルのノートに、こんな記載があります。

自分の人生をより充実したものにするために、各自が自分の持ち場で工夫してやってみるしかない。すべての人の人生は、充実した人生のための実験である。お互いが実験する姿が、お互いを励まし合う。

このイメージを具体化する一つの形が、ブログなのではないかと思う。

ブログに自分の工夫を書くことで、一つには、自分の営みを記録することが出来るし、もうひとつには、ひょっとしたら誰かに理解されるかもしれない。自分が求めているのは、そういうことなんだと思う。

さらに、もう少し前の時期には、閉塞感を黙らせるために平和な毎日の価値を自分に言い聞かせるような記載もあります。

倉下忠憲さんは、『Evernoteとアナログノートによるハイブリッド発想術』において、Evernoteの中に「地層」を育てる、という考え方を紹介しています。

アイデアの「畑」と「地層」:『ハイブリッド発想術』読書メモ(「なぜ、私は、思考するツールとして、Evernoteを使うのか」番外編)

自分の思考ログによる地層が積み重なっている自分のEvernoteは、Google検索ではたどりつけない、独自の意義を持つ情報源です。

閉塞感を抱いていた時期に自分が書いたEvernoteを見返していたら、当時の閉塞感に感慨深いものを感じるのと同時に、こんなEvernoteの意義を再確認しました。

他方で、今回の記事は、必ずしも、当時考えたことを忠実に再現したわけではありません。Evernoteという地層から掘り出した当時の思考を、一定の枠組みに沿って、再構成したのが、今回の記事です。

この一定の枠組みとは、『[超メモ学入門]マンダラートの技法』で紹介されていた[条件づくり]と[手順組み]というものです。

  • 最初に、その何かが成立するための条件を明確にする
  • 次に、その条件を創っていくステップを明確にする。
  • 最後に、一つずつ行動して、条件の整った環境を創り出す。

[条件づくり]と[手順組み]、そして「待つ」こと。(『[超メモ学入門]マンダラートの技法』より)

今回の記事に当てはめると、こうなります。

  • 閉塞感の原因を掘り下げることで、閉塞感が解消され、ワクワクする毎日を送るための条件を明確にする
    • 試行錯誤をくり返すこと
    • 自分にとって大切なものを発揮すること
  • 条件を創っていくステップを明確にする
    • 試行錯誤をくり返すために、毎日の生活の中に実験場のような場所を用意する
    • 店長からのおすすめの一品をお客さんに提供できる居酒屋のような場所を用意する
  • 条件の整った環境を創り出すため、ブログを始める

この枠組みは、今回の閉塞感のような、何らかのもやもやしたところから生じる問題を解消するために、比較的うまく機能するのではないかと思います。

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