人前で話すときのヒント8 「プランはあってないようなもの、と心得る」

プランを入念に立てれば立てるほど、それに固執してしまいがちになります。
そして、固執すると、どうしても自分が持っていきたい結論にしばられてしまいます。
これだけ準備したから、あれだけ考えたから、時間かけたんやから。
準備に時間をかけ、プランを入念に立てれば立てるほどに、そういう思いが強くなるのだと思います。
でもね、入念に準備したときほど、「プランはあってないようなもの」くらいに考えておくほうがいい。
固執しないために。
しばられないために。

プラン通りにはいかずとも

プランを立てても、それ通りに進むことはまれです。
大なり小なり、多かれ少なかれ、突発的な何かは起こります。
そのために、考えていたプラン通りに話が進まないこともしばしば。
プランなんて必要ではないんじゃないか?とも思えるほどに。

授業には「指導案」というものがあります。
主に研究授業をするときくらいにしか書かれない「指導案」。
日ごろから毎回書いている人はまずいません。
書くには時間がかかります。
加えて、授業はその指導案通りにはなかなか進んでくれない。
指導案を書いたとしてもそれどおりに授業が進むことのほうが少ないから、書く意味はあまりない、なんて意見をきくこともあるほどです。
でもそれはちがう。
ちゃんと体裁の整った授業案を書くまではいかずとも、その略案は毎回書くべきだ。
ぼくはそう思っています。

授業案を書くような、話すことのプランを立てることの最も重要な部分は、「そのプランどおりに話を進めていく」ところではない。
それがぼくの考えです。

「完璧なプラン」なんて存在しません。
おそらくどれだけ時間をかけて準備をし、慎重に、入念にプランを立てたとしても、それが完璧である保証はどこにもありません。
人前で話し終えた後、「プランが完璧やったから、話も完璧やった」なんて考えるようなら、それはきっとただ自分が盲目なだけでしょう。
なので、入念に準備をする意義は、完璧なプランを立てることだ一番の目的ではない、と思っています。
完璧なものを目指す過程において、わかった気から脱し、話の内容を自分自身が深く理解するためのほうが大きい。

立てたプランよりも、プランを立てる過程に意義がある

前回の「人前で話すときのヒント7 「入念なプランを立てる」」にて、「自分はわかっているつもりでも、実は「わかった気」になっているだけってことが多い」と書きました。
わかった気から脱するためにも、入念な準備は必要である、と。
プランを立てる大きな意義の一つが、この「わかった気からの脱出」なわけです。
立てたプランよりも、プランを立てる過程で自分の理解が深まっていくことのほうが、人に何かを伝えるときには大きな力になってくれます。

プランを考える際に自分に染み込んできた、自分が理解した、心にストンと落ちてきた言葉で話す。語る。
そういう言葉こそ、聞き手に伝わる言葉だと思います。

そして、自分に話す内容を深く浸透させ、滲み出てくる言葉を生み出すために、入念にプランを立てる。
入念なプランを立てることに意義があるので、立てられたプラン自体はもう話すときには忘れちゃってもいいんじゃない、ということです。

プランにしばられず、自分の言葉で

実際に話すときには、プランにしばられないよう意識する。
プランはあってないようなものくらいにとらえ、プランを考える際に、自分に染み込んできた、自分が理解した、心にストンと落ちてきた言葉で語るのがいい。
そういう言葉は、話している最中に口から出ることもあります。
不思議なことに、準備の段階では思い浮かばなかったのに、話しているときに口から出て、口から出た後、我ながら「そうそう、そういうことやねん!」と気づくようなことがあったりします。
こういうことって、誰かとしゃべっているときに感じたことありませんか。
しゃべっているときに自分から出た言葉が、妙に腑に落ちる感覚。
いつもの会話は、何を話そうか事前に決めているわけではありません。
そのときそのときの流れで、自分が考えたことを話している。
そんなときに、我ながら「それそれ!」と腑に落ちる言葉は生まれたりする。
おそらく、原稿を書いて、それ通りに話していては、プランにしばられてしまっていては、そういう言葉はなかなか出てこないと思います。

おわりに

話す前までは、入念なプランを立てる。
話すときには、プランはあってないようなものと考えておく。
入念にプランを立てていれば、そのプランにしばられずとも、きっとうまく話せるはずと信じて。

では、お読みいただきありがとうございました。

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